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集団におけるIQ低下について、日本人はもっと謙虚であるべきではないか?

ASKA覚醒剤使用で逮捕された。懲役3年執行猶予4年の執行猶予中ということで、今回の所持と合わせて実刑は免れ得ないだろう。芸能人が薬をやって捕まることはよくあるが、執行猶予中に再犯で捕まるのは異例だろう。
 
今回、ASKA邸に訪れた大量の報道陣がASKAのベンツのエンブレムを破壊したと書かれている点を、まあそこまで重大視することもないかもしれないが、この機会なので一つだけ書いておくべきことがあると思った。
今回の件、および特に最近の事案を挙げれば東大早稲田千葉大等の集団強姦事件、先日のおがくずジャングルジム炎上の件等が、「なぜ起きたのか?」と追求する(追求する声を上げることが往々にして快感に結びついている点を認める者は少ない)ばかりで、本題の「何故起きたのか」に対して結論を与えるものも又ほとんどいないのが現状であろう。よく映画を観るにつけて「考えさせられる映画でした!」などと嘯く映画評論家(往々にしていわゆる...な人々)が後を絶たないが、そういう連中に限って仮説レベルの結論すら与えずに考察を丸投げしては、問題提起したというだけで実質以上の名声評価を得た気になっているケースは極めて多い。......とまあそれぐらいにして、先述の「何故起きたのか?」という問いに対して与えられるべき解答は、
日本人の集団におけるIQ低下程度が著しいから
というに尽きる。日本人は個としての知的水準はおそらく、今なおかなり高いものであるだろう。しかし赤信号皆で渡れば怖くないと言われるように日本人の個は集団において特異な振舞いを見せると言われていることは殊更目新しくもない。
だからこそ、特に先日のおがくずジャングル炎上の件で、ネット上で「(おがくずに白熱電灯を照射したら引火することぐらい)誰だって分かる」だとか、あまつさえ「文系の俺ですら分かる」などというコメントさえ目撃したとき、それがその場に居たとき本当にそれに気がついて、そしてその認識を企画中止にまで持っていくだけの行動力が発揮できたかどうかは果たして怪しいぐらいの謙虚さは、多くの日本人が持っていて良いものではないかと個人的には考える。
 
追記 学芸大附属高校でいじめ!こんな名門校で…というご意見を目にしますが、そういう人たちは往々にしておがくずジャングルの時「これだからFランは」等と仰っていたと思います。だとしたら、個としての知的レベルは集団においての言動のレベルを担保しないと考えて、上記のような視座を一人ひとりが持たれるべきではないかと考えます。

選択的シングルマザー等についての私見

選択的シングルマザーという、最初から結婚せずに出産して、一人で子供を育てていくライフスタイルを選択する女性が増えていると言われている。実は私もつい先日テレビでそのような特集番組を観たのだが、個人的には選択的シングルマザーはあまり容認できない。先日見た番組で、明らかに自分の意志でシングルマザーになった女性が、結婚して離婚した場合と最初から結婚せずシングルマザーになった場合で税制上の不公平があることに不満を漏らしていた。だったら紙の上だけでも婚姻届を出しておけばよかったのではないかという話もそうだが、自分の意志でシングルマザーになった親がその程度の税制援助なしで生活していけないのであれば最初からそうしたライフスタイルを選ぶべきではなかったのではないかと個人的には思う。(不公平さの問題から論点をすり替えているという誹りは免れないが、法律側からの親へのメッセージと捉えることは重要ではないか)

勿論ひとり親家庭そのものが増えている現状は社会として経済的支援なり何なりでその存在を認識し、かつ適切なサポートがなされるべきであることは言うまでもないが、...

 選択的シングルマザー支持議論としてしばしば、両親が揃っていることを①家族のフレームとして絶対視することが適切か?②希望せず生まれてしまった挙句いやいや両親に(或いは虐待されながら)育てられる子供と、希望して愛されつつ一人に育てられる子供とどちらが幸せか? などが取り上げられる。 

まず①だが、家族フレームの絶対視とまでは言わないまでもしっかりした人間の間に生まれたのであれば家族構成は古典的であることをスタンダードとして良いと考える。以前某有名予備校講師が「東大に受かるのは家族や周りの人に愛されて育ったなというのが分かる生徒」と言っているのが強く印象に残った。経験上私も同じように思う。

②については「そういう問題ではない」の一言に尽きる。前者の子供の問題と後者の子供の問題は別個の問題として考えるべきで、まして幸福さなどといった尺度で程度を比較して自己防衛した気になるべきではない。そもそも避妊しないことは行為をする当事者の問題であり、虐待は論外な上根本的に違法であるから家族のあり方だの何だのと言った法律の外の問題のように扱うことで別の問題の尺度に干渉させること自体がおかしい。すなわち前者の子供の問題は子育て以前の問題であり、シングルマザー云々とは関係がない。

客観的な観点からひとり親が子供にとって良い環境とは言いにくい。まして母子家庭が両親健在の家庭に比べて自由度は低いはずであって(まず家事労働を分担できない上女性が子供を一人で養うだけの収入を得るのは相当に難しいことは言うまでもあるまい)、子供を産んだ段階で、その子供に不便不自由をかけさせるようなことを自分からわざわざするなど言語道断である。基本的に私はエネルギーのベクトルは一律で下の世代に向けられるべきであり、親の世代が子の世代に、きちんと教育的投資をすることが”当たり前”であれば子の世代は孫の世代に投資することを厭わない連鎖がつながってゆく。最大限動ける、可能性のある存在が最大限の権利を有する環境と風土が社会として醸成されるべきであると私は考える。

子供は生まれた瞬間から社会、他者総体との不断の接触と交流がはじまり、それは生前のみならず死後永遠に続くものである。すなわち、親の肉体から離れた瞬間から、子供は全社会への影響を与える一存在となり、その影響はいずれ自分にもはね返ってくる。そして親はその責任を担うと同時に、子供の存在(プレゼンス)凡てを掌握できる存在ではなくなることに対し、親になる/なった人間はもっと謙虚であるべきだ。

 

(...って、偉そうに書いたは良いけど、自分も別に親になったわけじゃないから説得力とかはないよなあ 30ぐらいの女性が「この歳になると急に子供が欲しくなる」って言ってたのが印象的でした。)

笑いとは何か?~ポリコレ礼賛的非抽象的諧謔批判に対する何か(前編)

問:笑いとは何か?
答:差別のマネー・ロンダリング
 
マネー・ロンダリング資金洗浄)という表現は見た目以上に笑いの本質を言い当てるものとして適当である。具体的に解体すると
 
①「資金(money)」→「汚れたお金」→どう汚れてるの?→反社会通年的手法によって獲得したから”汚れて”いる=差別意識の「原石」;差別が絶対的な「悪」という価値観に立脚すれば差別意識は決して表現の中で顕在化させてはならない。しかし・・・
②「洗浄(laundering)」→原石--根源性が高い--としての差別意識を、その話題の抽象度を(すなわち具体的なレベルに)下げていくことによって「何が面白いのか」を見えにくくし(無意識レベルにもっていく)、挙句それが政治、社会批判としてクリーンヒットした日には意識上で捉えられる点ばかりを取り上げて「社会風刺!高尚な笑い!」などと礼賛される。「シャレを解説するのは野暮だ」と言えば決して本質は見られようしない(無意識に溶け込んでいる)
笑いはわざわさメタ化されるべきではないと思うし、そんなのは野暮だというのは至極最もであると思う。ただそれは、一度も笑いとは何かといったことに関するメタ的思考をする必要がないことを意味しないし、そうした思考をしないことに対する、人間の笑いに対する誠実なあり方という権威(authorize)条件では決してない。
 
突き詰めれば凡ての笑いは差別意識を根底としている。本来笑いを評価する上での「不謹慎な笑い」と「不謹慎とは言えない笑い」などという価値観自体、極めて”非抽象的”(視野狭窄、傲慢な言い方をすれば”傲慢”)な視座に基いている。まして古典落語のくすぐり等「フレームが古くから続いている」だけを以て他と区別されるような笑いを「高尚な庶民文化」などと言うのは論外だ。
(この点について故・立川談志が正鵠を射たコメントを残しているのを何処かで読んだのだが忘れてしまった、落語は伝統文化とされるべきではないというのが梗概だが)
じゃあどうすべきか?方法論は二つある。①人類の脳から差別意識が起こり得ないような洗脳を施す(ある意味オーウェルの1984に近い)②諦める
 
何も嫌味を言うつもりはないのだが、非抽象的諧謔批判はたとえばインターネット上では「真面目系」をスタイルどっている人にしばしば見られる。ポリティカルコレクトネスといえば聞こえはいい(あるいは悪名高い)のだが・・・・・・ こうしたアカウント、あるいは著名人の多くが、たとえば人種だとかLGBTの差別を素材としたいわゆるブラック・ユーモアを痛烈に批判しているのはしばしば見受けられる。これはある面当然だ。私も何も性差別を助長することが正しいなどとは毛頭思わない。しかしそうした人々が、何かほかの、性差別とは無関係のことで、どのような小規模低程度であっても、弱者を対象に対する笑いを経験したことが一度もない人が、果たして存在し得るだろうか?
 
勿論世の中には本音と建前があるのだから、対外的言論に於ける発言と内心が必ずしも一致しないことはあるにせよ、しかし社会的な意識に基づくこうした「ブラック・ユーモア批判」的な言論は、ある程度以上本心で思っているからこそ力強く訴えられるものであるように思う。
 
いずれにせよ、そうした「対ブラック・ユーモア批判」は批判主体の内部において必ず矛盾が生じる上、笑いそのものが絶対的に不謹慎である大前提と合わせて、その論理体は何処かで自己撞着に陥る。(人間のある一つのスタンダードには必ず不謹慎さが備わっているのだからポリティカル・コレクトネスを絶対視すると必ずダブルスタンダードになる)
では笑いの排斥が本質的に不可能なら人種、宗教、LGBTetc...は笑いものにして良いのか?答はYESを包含したNOである。(後編に続く)
 
(もともと大統領選の一ヶ月ぐらい前に書いたメモがベースになっているが、ポリコレ棍棒といううまい表現を見つけて以来随分回りくどい書き方をしているなと反省している とりあえずほぼそのまま・・・何の言い訳だこれ)

第一稿(少年少女のナンセンス雑談仮題1)

少女「何か始めたらしいわね」

少年「この忙しい時期に何のために始めたんだろう、身のあるブログを書くほどの学があるようにも思えないし、商品紹介で小銭稼ぎするぐらいならyoutuberにでもなればよかったんじゃないかなあ」

少女「あの男が自分の面なんか晒してどうするっていうのよ、第一商品紹介なんてして誰が見るの? それにyoutubeなんてたいして面白くもない、別に見ても見なくたってだれの人生を変えるわけでもないとか言ってたあの男がそんなことするわけ無いわよ」

少年「さあね? ちなみにyoutuberの商品紹介の動画って殆どは別に見ても見なくても良い、だけどなんとなく見ちゃうっていうところに付け入って億単位の収益を上げてるんだよ」

少女「不思議よね」

少年「だからこそ、彼らは何万もする機材を買い揃えてマックススペック100万円のMacProで動画を仕上げてくるのさ、低い低い「戻るボタン」のしきい値をくぐるために」

少女「詳しいのねあんた」

少年「散々あの人に聞かされたんだ、俺が小中学生のときyoutuberなんか出てこなくてよかった、出てきてたら絶対真似してたって」

少女「(失笑)」

少年「まあ、いずれにしても彼がこのブログを開設して何かをするというつもりよりは、何でもしばらく書き溜めていた、ツイッターにかくと長すぎる、だけどフェイスブックみたいな公共性の強すぎるところでは書きにくいことを書いていくブログとしてしばらくやっていくそうだよ」

少女「それは良いけどなんであたしたちがその代弁に駆り出されてんの?万一炎上したら『書いたのは僕じゃありません』とかって言って責任逃れする気?」

少年「流石にそれは無理があると思うけど、曰く直接書くよりこういう方式のほうが書きやすいんだって」

少女「随分身勝手な男ね、第一書きやすいだの何だの言って、結局これだって某書猿のパクリじゃない」

少年「せめてオマージュと言ってあげれば・・・」

 

(何だこれ...... つづく?)