笑いとは何か?~ポリコレ礼賛的非抽象的諧謔批判に対する何か(前編)

問:笑いとは何か?
答:差別のマネー・ロンダリング
 
マネー・ロンダリング資金洗浄)という表現は見た目以上に笑いの本質を言い当てるものとして適当である。具体的に解体すると
 
①「資金(money)」→「汚れたお金」→どう汚れてるの?→反社会通年的手法によって獲得したから”汚れて”いる=差別意識の「原石」;差別が絶対的な「悪」という価値観に立脚すれば差別意識は決して表現の中で顕在化させてはならない。しかし・・・
②「洗浄(laundering)」→原石--根源性が高い--としての差別意識を、その話題の抽象度を(すなわち具体的なレベルに)下げていくことによって「何が面白いのか」を見えにくくし(無意識レベルにもっていく)、挙句それが政治、社会批判としてクリーンヒットした日には意識上で捉えられる点ばかりを取り上げて「社会風刺!高尚な笑い!」などと礼賛される。「シャレを解説するのは野暮だ」と言えば決して本質は見られようしない(無意識に溶け込んでいる)
笑いはわざわさメタ化されるべきではないと思うし、そんなのは野暮だというのは至極最もであると思う。ただそれは、一度も笑いとは何かといったことに関するメタ的思考をする必要がないことを意味しないし、そうした思考をしないことに対する、人間の笑いに対する誠実なあり方という権威(authorize)条件では決してない。
 
突き詰めれば凡ての笑いは差別意識を根底としている。本来笑いを評価する上での「不謹慎な笑い」と「不謹慎とは言えない笑い」などという価値観自体、極めて”非抽象的”(視野狭窄、傲慢な言い方をすれば”傲慢”)な視座に基いている。まして古典落語のくすぐり等「フレームが古くから続いている」だけを以て他と区別されるような笑いを「高尚な庶民文化」などと言うのは論外だ。
(この点について故・立川談志が正鵠を射たコメントを残しているのを何処かで読んだのだが忘れてしまった、落語は伝統文化とされるべきではないというのが梗概だが)
じゃあどうすべきか?方法論は二つある。①人類の脳から差別意識が起こり得ないような洗脳を施す(ある意味オーウェルの1984に近い)②諦める
 
何も嫌味を言うつもりはないのだが、非抽象的諧謔批判はたとえばインターネット上では「真面目系」をスタイルどっている人にしばしば見られる。ポリティカルコレクトネスといえば聞こえはいい(あるいは悪名高い)のだが・・・・・・ こうしたアカウント、あるいは著名人の多くが、たとえば人種だとかLGBTの差別を素材としたいわゆるブラック・ユーモアを痛烈に批判しているのはしばしば見受けられる。これはある面当然だ。私も何も性差別を助長することが正しいなどとは毛頭思わない。しかしそうした人々が、何かほかの、性差別とは無関係のことで、どのような小規模低程度であっても、弱者を対象に対する笑いを経験したことが一度もない人が、果たして存在し得るだろうか?
 
勿論世の中には本音と建前があるのだから、対外的言論に於ける発言と内心が必ずしも一致しないことはあるにせよ、しかし社会的な意識に基づくこうした「ブラック・ユーモア批判」的な言論は、ある程度以上本心で思っているからこそ力強く訴えられるものであるように思う。
 
いずれにせよ、そうした「対ブラック・ユーモア批判」は批判主体の内部において必ず矛盾が生じる上、笑いそのものが絶対的に不謹慎である大前提と合わせて、その論理体は何処かで自己撞着に陥る。(人間のある一つのスタンダードには必ず不謹慎さが備わっているのだからポリティカル・コレクトネスを絶対視すると必ずダブルスタンダードになる)
では笑いの排斥が本質的に不可能なら人種、宗教、LGBTetc...は笑いものにして良いのか?答はYESを包含したNOである。(後編に続く)
 
(もともと大統領選の一ヶ月ぐらい前に書いたメモがベースになっているが、ポリコレ棍棒といううまい表現を見つけて以来随分回りくどい書き方をしているなと反省している とりあえずほぼそのまま・・・何の言い訳だこれ)